最悪の空間に、俺はいた。
貧困だの国際問題に関する授業を受けてたんだが、「日本は環境の意識は高いんだけど、貧困の意識は低いですよね〜」「モノカルチャーから脱するためにそういう施策も、私は大事だと思って〜」「フェアトレードの精神が、ヨーロッパと違い日本ではほとんど認知されていないのが問題ですね〜」だの、偽善者共が、何ら世界の貧困問題や国際問題を本気で解決しよう等といった志をもっていないにも関わらず、<私は平和主義者!><世界みんなのことを考えている地球市民!>といったモラリストぶったオーラ(毒ガスと同等)をのうのうと垂れ流しやがって、非常に気分が悪くなった(嘔吐)
おい、まずそのあんただYo。
さっき俺と就活トークしてたあんたさ。
んで何だ?
「(広告代理店は)電通と博報堂だけ受けたけどダメだった〜」って言ってただろ?
ジーザス!
目の前に偽善者がいます。
ほんと笑いそうになったね。
電通や博報堂目指しといて、何が「環境ばかりじゃなく、貧困に対する高い意識を持つようにしないと!」だYo(笑)
じゃああんた就職活動で、ほんの一つでも、NPO団体とか受けたのか?
電通や博報堂の平均年収は1000万ぐらいあるが、日本のNPO法人の約6割は、1000万以下で活動してるんだZe?
個人じゃねえ、“全体の活動資金”が、1000万もねえんDa。
個人で1000万貰えるなんて、夢のまた夢Yo。
有給職員は6割近くが平均年収“150万”以下、無給スタッフもいる。
だから「NPO・NGOに就職して、社会で困っている人を助けよう!」といった大学生は皆無、俺も含めほとんど全ての大学生にとって、「その選択肢はありえない」んDa。
大抵は「公務員か民間企業」なんだNa。
そう、俺も含め、しょせん自分のことを第一に考えるエゴイストで、金という価値観の束縛から逃れられない守銭奴なんだZe。
にも関わらず、「社会で困っている人を救いたい」みたいな発言を口走りやがって、どうせ何もしないくせに、偉そうなこと言ってんじゃねえYo!
電通や博報堂に就職し、高い給料で贅沢豪奢に暮らしたいと思ってるんでしょ(笑)
ジーザス、だが俺も、人のことはいえない(悶)
俺も電通や博報堂の金&社会的ステータス&何か仕事面白そうに惹かれ、無残にも敗れ去った雑兵の一人だしNa(汗)
だが俺は、口先だけの偽善者には絶対なりたくないね、そこは一線を画しておきたいYo。
発言すると自分も偽善者になるゆえ、俺は全く議論に加わることができなかった。
俺の方が「より不毛で非生産的」な行動してるかもしれねえNa、まだ発言する方がマシかもしれねえNa。
でもそもそも教授よ、これほどまでの偽善者達を目の前にして、あんたは嫌悪感を抱いていないのかい?
腹が立ってこないのかい?
国際問題や平和問題について“教授”というポジションにまで登りつめたあんたは、世界を救うピースメーカーじゃないのか?
ピースメーカーになる夢が、あったんじゃないのか?
理解しているはずDa、「どうせこいつら何もしない」って、気づいているはずDa。
あんたのゼミ生は、どんな人達だ?
いないだろ?
NPO団体を就職先として選択する人、困っている人を救いたいといった信念を持った大学生なんて、いないだろ?
ほとんどみんな、建前では世界平和だの貧困だの語りつつも、実態は己の利益を第一として行動しているってのが、ひしひしと伝わってくるだろ?
だからガツンと言ってやれYo、
「いくら語ろうが、キミたちはどうせ何もしないんだろ!?(怒)」
と、言ってくれYo。
なぜ偽善者の生徒達を非難できない?
もしかして、あなたもピースメーカーになりたいといった崇高な志なんかなくて、
教授になりたい=社会忌避という感情が、あったのか?
何年も何年も、大学で自分の好きな研究やって、競争主義社会の辛酸を舐めることなく生きていたい、だから彼/彼女らを非難することができないのか?
いや失敬、ちょっと極端なことを言い過ぎた、教授になるために生活費&学費を自分でアルバイトしながら稼ぎつつ、外国や現地にも赴いて努力を怠らなかったという可能性もあるし、教授になるためにも、熾烈な競争があるだろうしNa、もうよそう(汗)
ここまできて、一番醜く映っているのは俺だNa。
よくいるんDa、こういう「上から目線で語るやつ」って。
「人混みがうざいよね〜」(あんたもその人混みを構成する一人じゃん?何その“私は人混みに属していない”みたいな優越は?)
「世の中やっぱ金やからね!」(何を根拠に言ってるの?何、見透かしたようにいってるの?)
みたいな、物事を「神の視点っぽく語る」やつ、マジ糞尿レベル。
学者とかが「○○族」だの「○○系」だとか言うのも糞尿排泄行為と同等、人や物事を自分が捏造した鋳型や価値観にはめ込み、さも「私は人間や世界を完全に理解している」「造詣が深い」と、自分が神であるかのように振舞う自分自身に陶酔する、醜い。
謙虚になれYo、ほんとに。
と、前フリが長くなったNa、今日はもっと明るい話をする予定だったんDa。
本題に入ろう。
今日、雨が降っていただろ?

俺は一人、傘をさしながら歩道を歩いていると、右図のように、外国人の男子&女子が、狭い歩道の真ん中で話し込んでいたんDa。
「どけどけ〜い殿様のお通りじゃ〜い」等と心の中で口走りながら、俺はその外国人二人の前を通り過ぎたんだが、俺は二人の間を通り過ぎた数秒後、「あっ!」と、思わず心の中で驚きの声をあげ、振り返った。
そして把握した、二人が「酔っている」ということを。
雨がざあざあと降りしきる中で、雨宿りもせず、二人で傘を買って相合傘すらしない。
そう、二人は「愛し合っている」んDa!
「雨に濡れている」という事実が意識に上ってこないほどに、彼と彼女の感覚は麻痺し、その見つめている目の先には、お互い以外の背景は、何も映っていない。
二人の目の前を、幾度となく傘をさした歩行者が通り過ぎる。
だがそれでも、二人が話を止めることはない。
雨に濡れる二人、傘をさしながら歩いている歩行者、見事なコントラストを構成している。
美しい対比、際立つ愛の空間。
二人が雨に濡れれば濡れるほど、俺や他の歩行者の存在を排除し、二人だけの世界は構築されてゆく。
そしてみずみずしい歓喜のシャワーは、「一緒に濡れる」という仲間意識の芽を、しだいに愛の花の開花へと、導くんDa!
ずぶ濡れになって話し込むあなたと私、濡れる髪、濡れる肌、濡れる股間。
「ああ、もうガマンできない・・・」
今すぐ愛し合いたい、だから濡れてもいいの。
実はもう、あなたと私は抱き合っているの。
だって愛し合う二人は、裸になって一緒にシャワーを浴びるじゃない?
だから私とあなたは、もう、既に、抱きあって(SEXをして)いるの・・・
そう、俺が言いたいのはここYo。
いわば“ジェスチャー”(象徴的行為)だということDa。
一見、SEXのジェスチャーというと、「腰を振る動き」等を想像するだろうが、この「二人でずぶ濡れになる」という行為も、「SEXのジェスチャーの一つ」なんだNa。
単に空間が違うだけ。
公的空間 私的空間
二人でずぶ濡れになる 二人でシャワーを浴びる(≒SEX)ほとんど同じ、同質性があるだろう?
だから映画やテレビドラマにある「男女二人が雨を浴びてずぶ濡れになるシーン」ってのは、実は「二人一緒に、お風呂(私的空間)でシャワーを浴びる」ことと相似の関係で、二人の“親密さ”を比喩的に描く手段として、かなり有効に機能している。
「雨になって二人でずぶ濡れになる」ことで、“排除”(傘をさしている人たち)と“局限”(二人だけの空間の構築)を加速させ、“愛を育む装置”として、機能させているんDa。
「吊り橋効果」(吊り橋のドキドキ感と、好意・愛情のドキドキ感を混同すること)と似たような方法論Yo。
といっても説得力にかけるNa、ちゃんと「映画、テレビドラマ、現実社会等において男女二人がずぶ濡れになっている状況」を100シーン(もっと多いほうが正確性は増すが)ぐらい抽出して、その100シーンの内、「カップル(=恋人、夫婦・・・)の成立数」を調べて、割合を求めないと信じない人もいるだろうYo。
だが俺の直感から考えても、非常にロマンチックな光景であったし、吊り橋効果と同等の効果が期待できるだろう。
だから君も、気になる異性をGetしたいなら、傘を捨てるorぶち折って、喜んで一緒に雨に濡れまくるんDぁ!