それは「ぶりっ子ってムカツク!」「男の前で態度変わる女がムカツク!」という感情の由来を探ることで、ひらがなの性的側面がさらにあらわになってくるんだNa。
よく、ぶりっ子が男性にモテる理由の一つとして「父性本能を刺激する」といったものがあるが、単に父性本能を「守ってやりたい」「助けてやらなければ」といった本能、として説明されても、どうも納得がいかない人が多いだろうYo。だが、この父性本能の正体が、後天的かつ経験論的かつ社会的に構築されてきたものと考えることで、父性本能により信憑性が出てくる。
まずぶりっ子の無意識的戦略として、「弱々しい幼児的な声を出す」「ハキハキと喋らず滑舌を悪くする」というものがあるが、これは一種の「退行現象」とも言える。それは別に、不安や欲求不満を抑圧するための防衛機制としての退行ではなく、男性を魅了する女性の求愛行動としての退行だNa。
(リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子
鳥類においても、幼児的な退行が雄にとって魅力的であるのであれば、父性本能というものはより信憑性があるかもしれないが、人間における父性本能には、歴史的/社会的に構築されてきた側面があること、決して本能だけには収束しない後天的な作用が加重されていることを、書きとめておきたい。
端的に言うと「父性本能がある」のではなく、「父性的な対象に同一化する」ことによって、ナルシシズムに浸り、男は快感を得ているんDa。
「父性的な対象に同一化する」というプロセスにおいて、日々筋肉トレーニングや考古学の勉強(インディ・ジョーンズに憧れた場合)など、習慣的な行動を“反復”しているだろうが、この反復という行為は、無機質なものではなく、「反復すること」と同時に「差異化すること」でもあり、自分をさらなる崇高で価値ある存在へと上昇させようとする運動でもあるのさ!
反復と差異は、辞書的な意味では全く相反する意味を有しているだろうが、実はこの二つの名詞、そしてそれが動詞化したものどちらも、その活動は同じであり、例えば「かめはめ波〜!」と、ドラゴンボールの世界を反復し、そのキャラクターに同一化しようとする運動を何度も繰り返す反復は、何度何度もそれを繰り返すことで、少しずつ悟空のように強くなろうとしているんだNa。
(ジル・ドゥルーズ『差異と反復(下)
映画『恋愛小説家』(AS GOOD AS IT GETS)にも出てくる常同症の男は、儀礼的な行動を毎日反復しているが、この反復は機械的なものではなく、「縮約」という作用が発生している。儀礼的だからこそ神秘的なのであり、自分の冴えない人生に、予定調和的、黙示録的構造を組み込むことで、現状を打破しようという差異化への運動Da。
(ジル・ドゥルーズ『差異と反復(上)
「縮約(construction)」は、かめはめ波を出す時や、小学生が「バキッ!」「ドゴォウ!」と、わざわざ自分の口で効果音を発しながら暴力的な動作を行う際にも起こっている。
初めてかめはめ波を出す時と二回目、三回目とそれを反復する過程において、過去に知覚、実践したかめはめ波の全ては、記憶の有限性ゆえに、元の長さ(記憶可能容量)は収縮されてしまうんだが、その中で、特異で魅力的な差異は抜き取られており、それら抜き取られた部分の差異が、反復によって集約され、融合する。
受動的総合は、幾度となく知覚されてきたかめはめ波の記憶の中から、至高のかめはめ波を無意識的=受動的に構築していくプロセスDa。
そして、この社会における普遍的同一化対象、キムラーと呼ばれる人間すら現れた故に木村拓哉はその一人として挙げられるだろうし、アムラーや倖田嬢も、同一化の対象として社会的に存在するだろうし、お笑い芸人においては、ダウンタウンを真似する若手がどんどん出てきたといった話をテレビで聞いたことがあるゆえ、松本人志なども同一化の対象としての地位を備えてるだろうし、今日の日記で俺が自分の話の信憑性を高めるために引用しているドーキンスやドゥルーズといったアカデミックなテクストの著者も、同一化の対象になったりするだろう。
もちろん、現実に存在する人物である必要はなくて、ステレオタイプな勧善懲悪物語におけるヒーロー、幼児期における戦隊物のヒーロー、スーパーマン、ダイ・ハードにおけるマクレーン刑事や、女性を守ると同時に、自己犠牲と滅びの美学を体現しているターミネーター2のシュワちゃんやタイタニックのディカプリオ、ビルドゥングスロマン(成長物語)のように、成長の中で強くなっていくルーク・スカイウォーカーやドラクエXといったRPGに出てくる主人公など、同一化の対象は日々供給され、記憶として無意識の領野に堆積し、縮約と受動的総合のプロセスを経て、理想の男、理想の女、理想の上司、諸々の理想的な同一化対象が受動的に構築されていくんDa。脳科学的な用語を用いてその心理的プロセスを精密に記述すれば、さらに信憑性が増すだろうが、その点は保留して話を進めよう。
同一化の対象は人それぞれ様々に分化していくだろうが、ある程度の普遍性を持った普遍的同一化対象として、「強いヒーロー」というものが、受動的に構築されている可能性が高い。
幼児期に摂取する文化、戦隊物やNARUTOやワンピースの主人公や強くて怖い父親といった、“原-同一化対象”(最初に模倣、あるいは同一化する対象)の属性が、勧善懲悪物語における「(肉体的に)強いヒーロー」だからであり、その刷り込みは、ある時期に抑圧されたり別の同一化対象へと変化するかもしれないが、その残滓が消えることはない。
なぜなら大人になっていくプロセスの中においても、「(肉体的に)強いヒーロー」「女性を助けるヒーロー」というステレオタイプな存在(同一化対象)は、供給され続けられるからDa。
もちろん、成長とともに「強いヒーロー」というのは、肉体的レベルに収斂する属性ではなく、多様に異化、分化してくる。メガネ男子のような知的な強さ、あだち充の漫画に出てくるようないった体育会系的強さ(H2は「野球物語」と「性愛関係」がパラレルに進んでいくゆえ、「性欲を満たすには野球をすればいいのか」といった自己意識を、多少なりとも供給する。)、『クローズ』のような、アウトローを実践する強さ等。
そしてその強いヒーロー、強い救世主と同一化したい願望のため、「ぶりっ子」を求めるんDa。
意図的にひらがなばかりを使う、それは「ひらがなしか使えないの・・・漢字や英語を教えてください」という象徴的メッセージでもあり、「まだ漢字も知らない幼い娘なの」という、ロリータの臭気を出すことでもあり、脆弱な幼児の印象を発することもでもあり、そして幼児に退行することは、「守ってほしい」「守ってくれないと死ぬかもしれないの」という社会的信号(フェロモン)を放出することDa。
なぜなら、幼児がか弱い存在であるというのは、ある程度一般性を備えた認識だろう?
女性から発せられたこの信号を受け取ることで、男は想像界において、無意識の領野に堆積され、縮約と受動的総合によって構築された諸々のヒーローに同一化し、「弱きを救うヒーロー」に変身して、男はナルシシズムに浸ることに成功する。
つまり、目の前の退行した女性だけに惚れているのではなく、「強いヒーロー(男)と助けなければならないヒロイン(女)」といった、ステレオタイプなドラマを想像的領野で“反復”し、妄想的快楽を得ているんDa。
その精神的反復の発生確率を上げるためのインフラストラクチャー(土台)を提供してやるため、女は努めて、あるいは無意識的に、幼児に退行し、男をヒーローに仕立て上げてやり、男の自尊心や自己愛を満たしてやる。
そして、給湯室などで行われる、女同士、ホモソーシャルの会話において、「ぶりっ子ムカツク!」「男の前で態度変わる女ムカツク!」というのは、その女が弱さを出すことで「ヒロインの属性を身にまとおうとしている」「ヒロインになろうとしている」からであり、「ムカツク!」というのは、「彼のヒロインの座は私よ!」「あんたなんかヒロインにさせない!」という意思表明と、性淘汰に勝利するための最適戦略でもある。
もちろん、ジェンダーステレオタイプに対するアンチテーゼを垣間見ることもできる『エイリアン』や『トゥムーレイダー』や『チャーリーズ・エンジェル』といった、女が「戦う女」として、ヒーローとして活躍する物語も存在するが、そういった映画には性描写が少ないだろう?
エイリアンには、主人公のリプリーが丸めたポルノ雑誌(ペニスの擬態物)を詰め込まれるシーンがあり、これにリプリーは抗っているが、これは「あんたのペニスなんかお断りよ!」というメタ・メッセージでもあり、男性を拒絶している。つまり「戦う女」は、男性を拒絶し、自立した女として生きていく方向にベクトルが進んでいくのであり、男性と性的に結合する目的を果たす方向においては、プラスに作用することは少ないんだNa。猟奇的な彼女、「(仕事をバリバリこなす)強い女」であるキャリアウーマンでも、常に強い女として振る舞い続けることはなく、もしそれを続けると、男は自分の理想的同一化対象と同一化し、ナルシスティックな快楽を得ることに失敗し、快感を得る機会が減少していく。
それゆえ、女はぶりっ子に走り、男のナルシス的欲望を満たすトリガーになるというわけさ。
『恋するハニカミ』において、細川茂樹が「両手の法則」というものを提唱し、グラスを両手で持つ女、手を両手で握ってくる女が「かわいい」と言っていたが、これも「両手を使わないと無理なの。片手じゃできないの」という退行であり、男は「弱いヒロイン」の存在によってナルシス的同一化を促進し、快感を得ることに成功する。
(ジル・ドゥルーズ『差異と反復(上)
受動的総合という至福を満たすため、男は自分の理想的対象に同一化しようと運動するんだが、強い女で居られ続けると、そのプロセスは阻害されてしまう。
それゆえ女は、男の願望充足のために「(守ってほしい)弱い女」に、変身する。
一つの裏付け、セーラームーンにおいて、月野うさぎは「戦う女」であるかもしれないが、タキシード仮面や月影の騎士が登場するときは、タキシード仮面様や月影の騎士に「守られる女」になる場合がほとんどであり、弱い存在へと変身(退行)するだろう?
普遍的同一化対象は、その対象への同一化運動が幾度となく反復され、陳腐になり、ベタでステレオタイプなモデルになろうとすると、消費行動におけるスノッブ効果のように、その対象が、別の差異を備えた対象へと少しずつズレていき、永遠に同一化することはない際限なき運動をし続ける(差延)。
とにかく、男のナルシスティックな欲望を成就してやるため、ぶりっ子は有効的な戦略であるということが、ある程度の裏付けをもって証明されたはずDa。しかし、男における完全なるマゾヒスト、強い女にいたぶられ続けることに至福を見出す性倒錯者、女が大便を頭上でしている最中に射精することに快楽を見出す性倒錯者等において、ぶりっ子戦略は通用しない気がするんだが、このことについては、考える必要があるNa。



